ましもきんとキャリア

キャリア・人生に悩める全ての人に。

あなたはなんのために生きますか?

今日はキャリア、というよりはもう一段レイヤーを上げた人生の話です。

急にどうしたんだ笑 という感じかもしれませんが、個人的な事情で改めて自身にここ数日問うているため、綴ってみます。話が脱線しますが、そのきっかけとなった一つの要素は「進撃の巨人」をAmazonprimeで一気見したことにあります。おいおい、アニメかよ、ふざけないでくれというお話をいただいてしまいそうですが、「死生観」についてとても考えさせられるコンテンツだなという見方で僕は捉え、自らの死生観について再度思考する一つのきっかけとなっています。「進撃の巨人」については、多くの方がご存じだと思うので詳述は控えますが、ここまで多くの人間の生き様、死に様に直面するコンテンツは他では中々ないと思います。強烈に成し遂げたいものに突き進んで自ら死を選ぶ者もいれば、逃避すべく自死を選ぶ者もいる、狭い壁の中で未知なものに蓋をして未知なものに死をもたらされる者もいれば、自分以外の大事なものを守るために死ぬ者もいる。このコンテンツを前に自らの死生観をアップデートせざるを得ないというマインドにさせられてしまう作品です。

さて、本題に戻りますが、標題の問いに対して、網羅的に深く思考した上で迷わず答えを返せる人はあまりいないのではないでしょうか。もはや網羅的に深く思考することにも意味があるのかも分かりません、むしろ死生観と向き合い切らずに短絡的な答えを出して思考停止に陥って生きていった方が楽かもしれません。この問いに対してしっかり思考する人は、自己や、死と対峙することになり、それは苦しい作業であることが多いと思うからです。私がこのテーマについて真剣に考え始めたのは30代になってからかと思います。勿論20代の頃にも多少思考したこともありましたが、安直な思考のもとに借り物の解を出して、その解をそれっぽく語る自分に陶酔しているのか、若しくは逃避していたのかもしれません。30代になり、より死を間近に感じる体験や、生に意味を見出す必要性に駆られ死生観に対する捉え方が変わってきたように思えます。孔子が晩年に振り返って言った言葉で、論語・為政』に綴られている「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)」というい言葉もあるくらいなので、私の死生観との向き合い方はそう遅い方でもないのかなとも思います。

私は思考の変遷はあれど、人生には元々あまり意味がないものだと思っています。ですが、せっかく手にした生に意味がないなんて思いたくないし、あまりに空しいと感じ、生きる気力も生まれない、だから意味を見出すもの、見出したいと思っています。この思考自体が逃避な気もしますし、もしかすると時間の無駄なのかもしれません。こんな答えがないことを思考して苦しむより、より動物的に、快楽に身を任せて生きていく方が楽だったりする気もしますしね。でも、それでも私は「なんのために生きるか?」を強烈に思考しながら生きたいです。なぜでしょうか、そう思わせている背景が様々で整理が難しくまだ自分でもよく分かりませんが、敢えて言語化するならばそれが生の充実に繋がり、死ぬその瞬間を満足して迎えられる気持ちが最も大きい気がします。死ぬその瞬間に満足しても、直後にこの世からその意識は消えてなくなるはずなのに不思議ですね。なんなんでしょうか。

このブログを読んでくださっているみなさんが今死生観をどのように捉えられているかは分かりませんが、もしまだ真摯に向き合えていないテーマだと感じられるならば一度向き合ってみてはいかがでしょうか。お互い、胸を張って生き抜いて、ガッツポーズで死んでいきたいですね。